Delight人物列伝 第一回 <Annerose Grunewald>
「囲まれたな」
そう呟く口調には、どこか余裕すら感じられなくもない。
「戦いは喜び、というわけかね」
「ああ。……いや」
生返事をしつつ、彼女は周囲に注意を配る。
じっとりと湿った空気。兜からわずかにこぼれる亜麻色の髪が雨に濡れ、肩当てに張り付く。
「……まさか。ミサニエルの連中と一緒にしないでくれ」
「ああ、そうじゃったな。おぬし……おっと」
老人はぬかるんだ大地に足を取られそうになり、杖でかろうじて体勢を整えた。空はどこまでも暗く沈む。大地はもはや雨の粒を受け止めきれず、そこかしこに濁った即席の河がみられた。
「この雨で思い出したわ……足場は悪いし視界も最悪、その上太陽の顔は暫くおあずけのようじゃがの」
「その代わり大地は潤うさ」
「やれやれ。願わくば、我らの身にもカラナの祝福のあらん事を」
周囲の気配は、ひとつ、またひとつと増えていっているように感じられた。
「うまくないのう。これは抜けられんな……おっと」
「仲間のキャンプまで、あとどのくらいだ?」
再び体勢を整えつつ、老人は少し考えてから答える。
「走って半刻」
「ち」
ぶ厚い雨雲に覆われた空を振り仰ぎながら、しかし容赦無く降り付ける雨を避けようともせず、女騎士は舌打ちした。鋭い目で周囲を睨む。
「これ以上逃げてもどうにもなるまいの」
「分かっている」
「数は4、5というところか」
「いや、8。ノールだ」
「……何故分かる?」
「私は西岸育ちだぞ。この獣臭い匂い、忘れたくとも忘れられんさ」
「闇エルフではないのだな?」
「おそらく」
「なら、問題はなかろう」
女騎士には、老人が何をして『問題』と言ったかは分からなかったが、兎も角、周囲の敵意は限界まで迫りつつある。2人は、素早く背中を合わせて気配に対峙する構えを見せた。
「初めに言っておくが、庇いきれそうもない」
「おい」
老人は心底情けない声を上げた。
「冗談は止せ」
「すまないが、こちらにも余裕が無いんだ」
女騎士の息が荒い。
「体調でも悪いのか?」
「先刻の鳩だ。畜生」
腕鎧と胴当が、ぶつかりあってかつかつと音を立てる。震えているのだ。見れば、雨に濡れた横顔が熱に火照っている。額に浮かぶのは、雨粒か、それとも。
「自分ひとりの身くらいはなんとかするさ」
「足手纏いの老人を気遣う余地はないというわけかね」
「悪いが」
老人は軽く肩をすくめる。が、表情は固い。
なぜ黙っていたのか。咎めるような表情で口を開きかけたところを制され、老人は沈黙した。
「来るぞ」
有無を言わさず、戦いがはじまった。
老魔術師は俊敏な動作で複雑な印を組み合わせ、その両掌に生じた火柱を、はじめに視界に入った狼に叩き付ける。亜人の体は炎に包まれ、どうと倒れる。焼きごてを押し付けたような短い音と共に、凄まじい水蒸気がもうもうとたちこめた。
水蒸気で四方の視界が奪われる。金属のぶつかり合う音が、右のほうでしたかと思うと、消えていった。敵も味方もわからない。アンネローゼは無事だろうか。
ふと気配を感じ、老人は咄嗟に、ぬかるんだ足場から後方に跳んだ。いや、すべったという方が正解やもしれぬ。次の瞬間、木の破裂する音がし、杖頭が粉砕された。衝撃で利き手が痺れる。老人は震える手で印を組む。現れた狼顔の亜人の、その足元の泥水がゆっくりともりあがり、急激にその温度を奪われ、それは小さな氷の柱となった。しかし呪詞が完成するよりも早く、横から別の棍棒が彼の腕をしたたかに打ち据えた。粗造りの棍棒の刺が彼の腕の皮を引き破る。集中が破れ、氷柱は崩れ去った。かろうじて突き出した杖の残骸はたやすくねじりとられ、まさに亜人の牙が目の前に迫ったその刹那、牙の間から血まみれの剣が生えた。
「無事か」
引き抜かれた剣に絡みつく血を雨で洗い流しながら、彼女が云う。
「大体片付いたようだな」
老人の目が見開かれる。あれほど多かった殺気がぱたと止んでいる。
「……8匹もいたというのに、か?」
「いや、切ったのは4……いや5匹かな。残りは逃げたのだろう」
「……」
「どうした?」
アンネローゼは老人の腕の傷に気付くと、ああ、小さく声を漏らした。
「すまん。気付かなかった」
「……あ、ああ。……頼む」
痛みも忘れていた老人は、その傷口を前に差し出した。皮ごと肉を引き裂かれた細腕からは、黒ずんだ血液が雨と共に滴り落ちていた。アンネローゼはためらいなく傷口に手を当てると、小声で彼女の神に祈りを捧げた。
「……すまなかったな」
「何がかね。……あつつ」
「いや、鳩さ。火が使えなかったとはいえ、不注意が過ぎたか」
「ああ。もう大丈夫なのか」
「コーネフの薬を飲んだからな。さっそく効いてきたようだ」
「そういえばわしの腹はなんともないがね」
「わたしはこれでも繊細なんだよ」
彼女はくっくと笑う。
次第に雨は収まりつつあった。葉の濡れた潅木が枝を重くしならせている。そこかしこに横たわる6体のノールの死体。その凄まじい切り口に老人はひそかに舌を巻いた。
「これを、あの一瞬でか。……疾風よな。まさに、疾風!」
「……何か言ったか?」
彼女が手を除けると、赤く盛り上がった痛々しい傷口が目に入った。だか血は止まり、もはや痛みもない。彼女は行こう、と言いたげに立ち上がった。
西の空には晴れ間が見え始めている。
了
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